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学校概要
淑徳SCは、明治25年(1892年)に浄土宗の尼僧であった輪島聞声先生が宗門有志の賛助を得て、東京は小石川の傳通院境内の一角に、一般女子のための女子校を開設したことに始まります。創設当初は、教員9名、生徒5名の、まさに「寺子屋教育」でした。 輪島聞声先生は、江戸末期に北海道は松前郡福山町の有力な商家に生まれ、熱心な仏教信者であった両親の影響もあって浄土宗の尼僧となられました。今でこそ女性が種々の分野で活躍することが当たりまえですが、当時は封建制度の意識が色濃く残る時代でした。京都遊学の7年は、男僧と机を並べ、まさに刻苦勉励の毎日であったと言います。そのような逆境の中でひたすら研鑽を重ね、学問の習得に努めるにつれて、女性の教育環境の不備とともに女性が教育を受けることの大切さを痛切に感じられた聞声先生は、その後、尼僧教育に止まらず、女性の地位の向上を目指して女子普通教育に全力を傾注していかれました。 草創期の学校経営は苦労の連続であったようですが、聞声先生は常に先頭に立って学校の維持のために奔走され、困難を乗り越えました。明治39年(1906年)には、「淑徳高等女学校」と改称し、躍進を遂げました。聞声先生は大正9年(1920年)に68歳でその生涯を閉じられるまで、女子普通教育に情熱を注がれたのです。 その後の学校の発展については、沿革のページに譲りますが、特記すべきは、創立120周年(平成24年)を目前に控えた平成20年(2008年)、人生の中で最も多感な時期に、確かな基礎学力、社会力、自分を見つめる目を養い、生徒一人ひとりが将来を切り拓く力を身につけさせることを目指したSC(サクセスフルキャリア)教育を掲げ、校名を淑徳SC中等部・高等部に変更したことです。そして、今日までSCの理念の具現化と実践に、教職員が一体となって取り組んでいます。 現在校長は、宗教法人傳通院第77世貫主・学校法人淑徳学園理事長 麻生諦善が兼任しています。 建学の精神![]() 「進みゆく世に後れずに、 社会の変容に適応する淑徳を備えた女性の育成」 (校祖:輪島聞声尼の言葉) 輪島聞声先生は、江戸末期に北海道は松前郡福山町の有力な商家に生まれ、熱心な仏教信者であった両親の影響もあって浄土宗の尼僧となった。明治時代には尼僧教育に努め、意識も生活も低迷し困窮していた尼僧の地位向上に大きな功績を残した。今でこそ女性が種々の分野で活躍することが当たり前の時代だが、当時は封建制度の意識が色濃く残る時代であった。京都の知恩院大学林での7年におよぶ学究生活では三百余の男僧と机を並べて、ひたすら研鑽を重ね学問の習得を進めるにつれ、先生は女性の教育環境の不備とともに女性が教育を受けることの大切さを痛切に感じることになった。 1888年(明治21年)、東京本所の感応寺の住職に任命された先生は、以降、東京を中心に布教活動とともに教育活動に傾注していった。それとともに先生の教育への情熱は、尼僧教育に止まらず、その枠を超えて一般女子教育へと深化していった。1890年の宗門に対する建議書では、隆盛を誇るキリスト教への学校事業に比し仏教側の対応の遅れに警鐘を鳴らしている。聞声先生が教育に関する優れた理念や深い見識とともに、それらを実践する胆識(胆力)を有していた証左でもある。 そして1892年(明治25年)、宗門有志の賛助を得て、東京は小石川の傳通院境内の土地を借り受け、一般女子の為の「女学校開設」に至った。創設当初は教員9名、生徒数5名のまさに寺子屋教育から始まった。聞声先生は常に先頭に立って学校維持に奔走され困難を乗り越えた。その後、1906年(明治39年)に「淑徳高等女学校」と改められ、大いに発展し躍進を遂げた。そして、先生は1920年(大正9年)、68歳で生涯を閉じられた。 『遺訓』:「信」と「忍」 「信」:万善万業之基礎。 「忍」:忍の徳たるや一切の事業を成就す。 |







